[ 日本史 ] 鎌倉時代 ~ 源氏ではじまり北条氏の内紛に明け暮れた時代 ~

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鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて開きました。鎌倉殿とは、鎌倉時代の長の事を指し、転じて源頼朝や鎌倉時代そのもののことを言うこともあります。また、テスト問題でもよく出題される「守護」ですが、難しく考えることはありませんよ。現代で言う役人・公務員です。NHK職員が出向で各県に行くようなものです。本人にしてみたら転勤になるので嫌々やっていた人もいるでしょうね。

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管理人が学生のころは、鎌倉幕府は1192年から始まったとされていましたが、最近は変わったようですね。いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府なんて覚えていましたね。

では、鎌倉時代を振り返ってみましょう。

1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨

そのままんまの名前ですね。朝廷が頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した宣旨です。ここにくるまで色々なことがあったでしょうが、頼朝はついに東国支配権を得ました。シメシメですね。

1185年(文治元年) 守護・地頭の設置

頼朝は各国に守護と地頭を設置しました。各国を支配・管理するための職ですね。簡単に言えば子分です。ついに支配体制が整いました。これをもって鎌倉時代が始まったと現在では認識されています。冒険の始まりです。「海賊王に俺はなる!」と言うやつでしょうか。

ちなみに鎌倉幕府は、現在の神奈川県鎌倉市ですね。そのまま今でも地名として残っていますよ。知ってますよね。

1189年(文治5年) 奥州合戦

奥州を支配していた藤原氏を潜在的脅威に感じ何とか打ち滅ぼしたい源頼朝でしたが、このころ敵対関係にあった源義経(弁慶ですね)が、奥州に潜伏していることがわかりました。源頼朝は藤原氏に源義経を討ち取るよう圧力をかけて、ついに屈した藤原氏は源義経を自害に追い込みました。しかし、源頼朝の目的は藤原氏の滅ぼすことです。「勝手になに殺しているの?」といちゃもんをつけて奥州に挙兵しました。そして、藤原氏を滅亡させ奥州を支配下に置きました。ずるいですね。。。

1192年(建久3年) 源頼朝が征夷大将軍に任命される

征夷大将軍とは、源頼朝が称号としてほしかっただけのようですね。「大将軍」という称号がほしかったようです。大将軍と言う文字が入れば何でも良かったようです。人は称号をほしがるのは、今も昔も変わらないですね。管理人の世代では征夷大将軍といえば「羽賀研二」でしたが。

1199年(建久10年) 1月、頼朝の死、頼家が家督に就く

源頼朝が急死し、息子の源頼家が征夷大将軍につきます。なんとこのとき、頼家は若干18歳でした。従来の慣習なんかを無視して色んなことを決めちゃうような、やんちゃ坊主でした。このことがきっかけで、翌年(1200年)には十三人の合議制が導入されました。13人の合議によって色々なことを決めましょうということで、頼家だけが独断で物事を決定することができなくなりました。憎めないヤツですね。

1200年(正治2年) 梶原景時の変

源頼朝の腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件です。簡単な話が権力闘争に負けたと言うことですね。大人の汚い世界が見えそうですが、目を背けてはいけません。北朝鮮や中国の粛清はまさにこれです。人の命をかけていますね。なお、鎌倉殿と御家人間の互恵関係を御恩と奉公といいますね。「給与をあげるから、戦時はもちろん、色々働いてね」と言う関係です。

1201年(建仁元年) 建仁の乱

梶原景時にかわいがられていた 城長茂ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱です。幕府によって鎮圧されますが、きっと始めから鎮圧されることは覚悟していたのかもしれませんね。主人のために命をとして復讐するように話は美化されるかもしれませんが、現在の日本では復讐は法廷に認められていませんよ。気持ちはわかるのですが、どこかで復讐の連鎖は断ち切らねばなりません。ただし、断ち切った人だけが馬鹿をみるような社会にはならないでほしいですね。

1203年(建仁3年) 比企能員の変

この時、頼家を支える存在として残されたのは、比企能員であったが、この比企の存在が邪魔でしょうがない人物がいた。それがなんと、頼家の母北条政子とその父親である北条時政でした。そして、政変が勃発し、比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされることになりました。この政変によって頼家も失脚しました。親、兄弟、親戚での骨肉の争いですね。今の世の中も残念ながら起こっていることです。北条政子は何よりも母親として、頼家のことをどう考えていたのかが気になります。

1204年(元久元年) 頼家暗殺される

北条氏の手兵によって殺害されました。満21歳の若さでした。なんとも寂しい人生の終わり方をしたような気がします。何が幸せなのか考えさせられますね。

1205年(元久2年) 畠山重忠の乱

武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件です。またもや、北条時政の登場です。権力闘争に明け暮れていたようですね。

1213年(建暦3年) 和田合戦

鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱ですが、打倒相手は当然北条氏です。ただし、この反乱は失敗し北条氏の執権体制はより強固なものとなりました。返り討ちにあっちゃいました。

1221年(承久3年) 承久の乱、六波羅探題の設置

続いては、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて兵乱を起こします。しかし結果は返り討ちです。幕府の勝利でした。この結果、朝廷の力は弱まり、幕府の傘下にくだった感じになっちゃいましたね。北条氏最強時代です。

また、朝廷の動きを監視するために幕府に六波羅探題という職を設置しました。勝利したとはいえ、いつ寝首をかかれるかわからない時代です。ばっちり監視活動です。

1232年(貞永元年) 御成敗式目の制定

御成敗式目とは、武士政権のための法令(式目)のことでして、日本最初の武家法であり、当初は51条で構成されていたようです。聖徳太子の17条憲法の3倍と言うことらしいです。また、御成敗式目には現代の法律にも通じる部分があったようです。

1247年(宝治元年) 宝治合戦

またもや内乱の勃発です。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされました。北条氏最強は続きます。この結果を契機に、十三人の合議制は廃止され、北条得宗による専制政治が確立しました。独裁もしくは独裁一歩手前ですね。

1272年(文永9年) 二月騒動

二月騒動(にがつそうどう)は、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛です。敵が外にいなくなると、今度は身内から紛争が発生しました。好き物ですね。結果、身内での殺し合いです。この内紛の結末は、執権時宗に対する反抗勢力が一掃されることとなり、得宗家の権力が強化されました。

1274年(文永11年) 文永の役

1回目の元寇(蒙古襲来)です。どうやら神風は吹いていないようです。元は偵察がメインでどうやら戦闘らしい戦闘は余りなかったのかもしれませんね。しかし、お互い戦死者は多く出たでしょう。これは間違いなく戦争です。

1281年(弘安4年) 弘安の役

2回目の元寇(蒙古襲来)です。神風ビューです。台風が日本の見方をしてくれたみたいですね。もちろん激しい戦闘が幾度となく繰り返されたでしょう。たくさんの犠牲者・負傷者も出たことでしょう。このとき、追い返すことに成功し今の日本があります。タラレバは余り好きではありませんが、もしも支配されていたら今頃どのような日本になっていたでしょうか。考えさせられますね。

1285年(弘安8年) 霜月騒動

御家人一族との北条氏最後の戦いです。見事に勝利し権力を磐石なものにしました。幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官勢力の覇権が確立しました。

1293年(正応6年) 平禅門の乱

鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である9代執権北条貞時によって滅ぼされた政変のことをいいます。御家人は一掃したと思ったら、今度は子分を退治しましたね。北条家のDNAはまさに権力闘争が大好きですね。

1297年(永仁5年) 永仁の徳政令

この頃、良くも悪くも御家人たちは借金まみれでした。借金と言っても土地を担保にお金を借りていたようなのです。本格的に貨幣経済に移行しているときだと思いますので、よくわからなかったんだと思います。そして、「借りたお金は返さなくて良い。土地もそのまま所有してよい」と御家人にとってはラッキーな御触れが出されました。きっと、質屋さんは大損ですね。徳政令をだした鎌倉幕府の9代執権北条貞時は御家人が大事だったんですね。

1324年(正中元年) 正中の変

後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件です。覚えていますか?朝廷を監視するために設置した職は何だったでしょうか?そうです、六波羅探題です。きっと大活躍だったのでしょう。スパイですね。スパイ。

1331年(元弘元年、元徳3年) 元弘の乱

鎌倉時代も、いや、北条氏の時代もいよいよクライマックスです。後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動が勃発しました。六波羅探題が機能しなかったのでしょうか。正中の変での活躍から、ちょっとサボってたのかも知れませんね。勝って兜の緒を締めよとはいいますが、緩んでいたのかもしれません。最終的には北条氏一族を自害に追い込み討伐に成功しました。

室町時代へ突入

後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功しました。六波羅探題とか邪魔だったでしょうね。その後、後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始しました。だが、新政への支持はあまりなかったようです。このような状況から足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていくのですが、今回はここまでです。権力闘争の鎌倉時代はいかがでしたでしょうか?

 

では、また。

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